不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

3大ジャズプレイヤー‼️‼️‼️

引用

アメリカで誕生した『ジャズ』。そこには、3人のジャズの天才がいました。そんなアーティストを紹介しましょう。

ジョン・コルトレーン

1926年ノースカロライナ州出身。主にテナー・サックスを演奏したが、音楽キャリアの最初期にはアルト・サックス、1960年代よりソプラノ・サックス、最晩年にはフルートの演奏も行なっています。活動時期は、1950年代のハード・バップの黄金時代から1960年代のモード・ジャズの時代、さらにフリー・ジャズの時代にわたり、それぞれの時代に大きな足跡を残しました。1962年の『バラード』は彼はの最高傑作となっています。

マイルス・デイビス

1926年イリノイ州出身。祖父はアーカンソー州に広い土地を持ち、父は歯科医、母は音楽の教師という裕福な環境で育ちます。13歳の誕生日に父親からトランペットをプレゼントされ、演奏を始めます。高校在学中の15歳のときにユニオン・カードを手に入れ、セントルイスのクラブに出演するようになります。当時のセントルイスにはアフリカ系アメリカ人の労働者の居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われていました。そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいました。彼の最高傑作は、なんと言っても1959年の『カインド・オブ・ブルー』。アメリカだけで、400万枚近く売り上げています。

ビル・エヴァンス

1929年ニュージャージー州出身。母はルシン人の系統を持ち、父は相当な身分を持つウェールズ系の人物でした。彼の父は、兄のハリーと同様に、幼い頃からエヴァンスに音楽を学ばせている。ラフマニノフやストラヴィンスキーなど、クラシック音楽に親しんだ後、10代に入ると兄と共にジャズにも関心を持つようになり、余暇にはアマチュアバンドでピアノ演奏するようになります。彼の、実力を知らしめたのが、1960年の『ポートレイト・イン・ジャズ』はジャズ・ピアニストの最高峰です。

正に、ジャズの3大アーティストです。



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最後のビートルズ‼️‼️‼️

引用

『ザ・ビートルズ』の前身は、『クオリーメン』ですが、当時のメンバーは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンです。後にメンバーとして加入したのは『リンゴ・スター』です。

1940年、リヴァプールのロイヤル・リヴァプール小児病院で誕生。労働者階級の出身。労働者の慣習に倣い父リチャードのファーストネームを命名され、出生名は、リチャード・スターキー。

3歳の時に、両親は離婚し母子家庭という環境で育ち「『父との思い出』と呼べるものは何もない」と述べています。

小学校低学年時に盲腸炎・腹膜炎などで1年以上休学し、勉学面でついていけなくなった。そのため、学校をズル休みする事が多くなってしまった。12歳のとき、母エルシーがペンキ職人ハリー・グレイブスと再婚しました。

病弱だった彼は入退院を繰り返し、学校にほとんど行くことができなかった。この入院中に医者から教えてもらったのがドラムで、やがて院内のバンドに加入。以来、リンゴはドラム以外の楽器に関心を示さなくなっていったという。ドラム・セットを手に入れた後は、もう学校に戻ることはありませんでした。昼は工場で働き、夜はダンス・パーティーなどでドラムを叩くという生活を送り、数々のグループに在籍して腕を磨いていきます。

ビートルズに出会った時には『ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ』というバンドのドラマーを務めていました。当時ビートルズのドラマーだったピート・ベストが解雇され、リンゴがビートルズに加入して新たなドラマーとなり10月5日にレコードデビュー。

若い頃から職を転々としていたリンゴは、プロのドラマーになって初めて金銭を安定的に得られるようになりました。リンゴはビートルズ加入前にビートルズの面々とハンブルク巡業時に顔見知りになったが、ジョージ・ハリスンは「出逢ったころのリンゴは僕らよりも収入が多くて、僕らよりも早く車を買って乗り回していた」と述べています。

芸名の“リンゴ・スター”とは、『ロリー・ストーム&ハリケーンズ』時代にそれぞれが芸名を考えた時につけられたもの。指輪が好きで両手にいくつも付けていたので“Rings(リングズ)”と呼ばれていて自分がリンゴ・キッドに憧れているので「リンゴ」と命名。リンゴは、Ringo Starkeyでいくつもりだったけれど、しっくりこなかったのでStarkeyを半分にしてrをもうひとつ付けたと発言しています。

1965年にモーリン・コックスと最初の結婚、同年に長男ザック誕生。同年、MBE勲章五級を授与されます。

ポール・マッカートニーがビートルズ脱退を表明する直前に、スタンダード・ナンバーを集めた初のソロ・アルバム『センチメンタル・ジャーニー』(全英7位、全米22位)を発表。これを機に、リンゴはソロ・ミュージシャンとしての活動を始動します。同年には2枚目のアルバム『カントリー・アルバム』(全米87位)もリリースしています。シングルでは、自作の「明日への願い」(英米4位)を発表しました。「明日への願い」と「バック・オフ・ブーガルー」(全英2位、全米9位)は、ヒット・チャートを賑わしました。ジョージ・ハリスンとの共作曲「想い出のフォトグラフ」や「ユア・シックスティーン」(ジョニー・バーネットの曲のカバー)は、全米1位を記録しました。リンゴは1970年代前半にジョン、ポール、ジョージらビートルズの元メンバーと同様、コンスタントにシングル・ヒットを連発した。さらに1974年にプラターズのカバー「オンリー・ユー」(全英28位、全米6位)、日本では「オー・マイ・マイ」(全米5位)がヒット。75年にはアメリカで「ノー・ノー・ソング」(全米3位)がヒットしました。

シングルだけではなく、アルバムでも彼は成功を収めました。1973年発表の『リンゴ』は全米1位(全英7位)にランクイン。ビートルズ解散以降初めて、4人のメンバーが1枚のレコードの中で名を連ねます。ジョン・レノンやエルトン・ジョン、ニルソンなど、豪華な作家陣が楽曲を提供し、レコーディングにも参加した次作の『グッドナイト・ウィーン』(全英30位、全米8位)も前作同様に大ヒット。ジョージが企画して行われた1971年の『バングラデシュ難民救済コンサート』も含め、1970年代前半のリンゴはさまざまな分野で大活躍しました。

しかし、1976年に古巣EMI/アップルを離れ、アトランティック・レコードに移籍した頃から、好調だったソロ活動に翳りが見え始めます。76年にリンゴは『リンゴズ・ロートグラヴィア』(全英28位、全米16位)とシングル「ロックは恋の特効薬」(全英15位、全米26位)を発表しました。当時リンゴは、自らのレーベル、リング・オー・レコードを設立。作品のプロデューサーにアリフ・マーディン、作曲家にヴィンセント・ポンシア・ジュニアなどを迎え、極めてファンキーなサウンド作りに徹していました。しかし、そういった路線を、より具体的に打ち出した1977年のアルバム『ウイングズ~リンゴIV』は、ビルボードのアルバムチャートで100位圏外という結果に終わってしまいます。この作品の売上不振を原因に、彼はアトランティックから契約を打ち切られています。プライベートでも腸の病気を患って、一時危篤状態に陥ったり、ロサンゼルスにある自宅が火事で全焼したりと、1970年代後半はリンゴにとって多難な時期となっていました。そんな中、彼は自らが主演を務める映画『おかしなおかしな石器人』の中で共演した女優のバーバラ・バックと恋に落ち、1981年に再婚(前妻のモーリーン・スターキーとは1976年に離婚している)。だがその前年1980年、ニューヨークでジョン・レノンが殺害されるという衝撃的な事件も起こりました。この事件が起こった直後、夫妻は急遽ニューヨークのオノ・ヨーコのもとに向かい、ジョンの死を悼んでいます。

1980年代には2枚のオリジナルアルバムを発表したが、シングル・カットされて全米トップ40ヒットとなった「ラック・マイ・ブレイン」以外はヒットには至りませんでした。ジョー・ウォルシュをプロデューサーに迎えて制作された1983年発表の『オールド・ウェイブ』に至っては、本国やアメリカではリリースさえありまさんでした。1980年代の彼は私生活でもとても退廃的な体たらくだったようで、ポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンのアルバムや、チャリティ・コンサートなどでドラムを叩く活動が中心でした。1980年代後半はアルコール依存症にも悩まされています。

そんな彼も、1989年にアルコール依存症患者更生施設での治療を経てカムバック。ブルース・スプリングスティーンのバックバンドであるEストリート・バンドや、イーグルスの元メンバーなどを集めた、「リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド」という新バンドを結成し、ビートルズ解散後初の本格的なワールド・ツアーに出ます。その年の秋には日本公演も実現、元メンバーで解散後最初に武道館公演も行いました。

1992年に久々のアルバム『タイム・テイクス・タイム』を発表してからは、その活動はますます精力的なものとなり、1995年にはオールスター・バンドを従えて再び訪日しました。この際の武道館公演は、『ヴォリューム・ワン』というタイトルのCDとなって、アメリカの「ブロックバスター」から通販限定で販売されています。

1998年には、キャロル・キングやエアロスミスなどを手がけたことで知られるマーク・ハドソンを、作曲パートナーと共同プロデューサーに迎えて制作されたオリジナル・アルバム『ヴァーティカル・マン~リンゴズ・リターン』(全英85位、全米61位)をリリース。マッカートニー、ハリスン、ブライアン・ウィルソン、アラニス・モリセットなど、豪華なゲスト陣とともにレコーディングされたこのアルバムは、彼にとって実に22年ぶりとなる全米アルバムチャートのトップ100入りを果たしました。その後はハドソンをパートナーとして、精力的に創作活動に臨み、数枚のアルバムを発表しています。数年間隔でオール・スター・バンドのツアーもこなし、マイペースながら着実な活動を続けています。

2008年には、メンバー中唯一サインに応じる元ビートルズとしての生活に嫌気が差したとし、「10月20日以降はどんなものであってもサインしない、ファンレターも読む暇がないのでゴミ箱行きになるから送らないでほしい」と声明を出しました。報じられたニュースによれば、ファンレターの返事にサインを送ると、送ったサインが転売されるというケースが頻発したことに対する憤激であるとも言われています。

2011年頃には、ギターを弾いている場面がよく見られる。「サマーツアー・イン・ヨーロッパ」のムービーでは青いフォークギターを弾いています。その他にリンゴのホームページでエレキギターやピアノを弾いているところを見ることができます。

2013年には「リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド」として三度目の日本公演を行いました。

2014年にはビートルズの米国上陸50周年のメモリアルイヤーとして、グラミー賞授賞式でポールと共演。そして翌1月27日、ビートルズ訪米50周年トリビュートコンサート”The Night That Changed America: A GRAMMY Salute To The Beatles”が開催。ラストではポールと共に「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」と「ヘイ・ジュード」を披露して会場を熱狂させました。

2015年に『ロックの殿堂』入りを果たし、ビートルズはバンドとしてだけでなくメンバーがそれぞれ全員殿堂入りを果たしました。2016年に「リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド」として四度目の日本公演を行いました。

2018年3月20日、音楽界への貢献やエイズ研究などへの支援が評価され、ナイトの爵位が授与されました。

現在、81歳。これからの活動に注目です。



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シティーポップの代表アーティスト

引用

日本で、1970年代中期からブームとなった『シティーポップ』。大瀧詠一、竹内まりあなどがいますが、中でも『山下達郎』の貢献度は大きいでしょう。

1953年、彼は池袋駅西口界隈で居酒屋を経営していた両親の間に生まれ、一人っ子として育ちます。飲食業を嫌がる母親の希望もあって、長男の誕生を機に父親は転業を決意し、もともと電気職工であった祖父が経営していて倒産した工場を引き継ぐ形で再興を図ります。

小学6年生の時、当時の音楽担当教師に勧められクラブとマーチングバンドに所属し、太鼓を担当する。これをきっかけに楽器への興味が芽生えたものの、音楽そのものに関しては、映画好きであった両親の影響で耳にする映画音楽や、テレビ・ラジオの歌番組から流れてくる歌謡曲を楽しむ程度に留まっていました。当時のお気に入りは三波春夫ので歌謡浪曲でした。

豊島区立高田中学校へ進学。ここではブラスバンド部に入部し、やはり小太鼓を担当します。以来、中学・高校の6年間をブラスバンド部員として過ごし、打楽器を担当し続けました。また、同じ時期、ウクレレを買ってもらったことをきっかけにギターにも興味を持ち、独学で練習し始めています。友人の影響を受けてベンチャーズをきっかけに洋楽を聴くようになったのもこの頃で、熱心なトップ40リスナーになりました。ベンチャーズのコンサート・プログラムに載っていた曲目リストを見て、自分の好きな曲が特定の作家の作品であったことを知り、それからはポップスを系統立てて聴くようになります。

1972年、アマチュアバンドの友人達とアルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を自主制作する。この中には、後に『シュガー・ベイブ』のメンバーとなる村松邦男と鰐川己久雄がいました。1974年、音楽事務所と契約するも、給料をもらえず、経済的に困窮します。しかし、この頃から始めたCM音楽の仕事や、スタジオでのコーラス・ワークの活動を通じて、達郎の声は少しずつ認知されてます。シュガーベイブも学園祭やライブハウス等の場で、次第に知名度を増していきます。

シュガー・ベイブの所属レコード会社が大瀧のナイアガラ・レーベルに決定し、レコーディングを開始します。

シュガー・ベイブ(山下・大貫・村松)がコーラスで参加した荒井由実のアルバム『MISSLIM』をリリースする。達郎はコーラスの他、一部の曲ではギタリストとして参加。荒井(松任谷)の作品にはソロになって以降も、『OLIVE』(1979年)まで関わっています。

1975年、シュガー・ベイブ、アルバム『SONGS』とシングル「DOWN TOWN」を、ナイアガラ・レーベルから同時リリース。

アルバム・リリースと前後してメンバーに変動があり、野口・鰐川に替わって上原裕・伊藤銀次・寺尾次郎が加入することで、6人組となりましたが、伊藤が抜け、再び5人組となります。

黒木真由美がアルバム『12のらくがき』をリリース。この作品には、山下が初めて他のシンガーに書き下ろした「恋人と呼ばれて」と「北極回り」の2曲を収録。

1977年、全曲アメリカ・レコーディングによるアルバム『CIRCUS TOWN』(50位)でRCA ⁄ RVCよりソロ・デビュー。

吉田美奈子のアルバム『TWILIGHT ZONE』を、吉田との共同プロデュースでリリース。アルバムからのリカット・シングル「恋は流星Part I・II」をリリース。

アルバム『SPACY』(59位)リリース。前作『CIRCUS TOWN』での海外レコーディング経験に大きな音楽的刺激を受け、以後、自分が書いたスコアでスタジオ・ミュージシャンと共にレコードを制作する数年間が始まります。その結果、『SPACY』は実験的かつ内省的なアルバムとなり、売り上げは芳しくなかったが、後のセールス・ポイントとなる一人多重録音によるコーラスが登場。古くからのファンには本作がベストと評する人も少なくありません。

山下編曲・プロデュースによるマザー・グースのシングル「貿易風にさらされて/マリン・ブルー」リリース。他のシンガーを手掛けた初プロデュース作品。

1980年、コンサート・ツアー『CONCERT ’80』スタート。全5公演。コンサート・ツアー『RIDE ON TIME CONCERT ’80』スタート。全15公演。

79年、プロモート用で制作されたLPが評判となり、『COME ALONG』のタイトルでリリース(カセットのみ)。DJ入りコンピレーション・アルバムの先駆けとなる作品となります。

シングル「RIDE ON TIME」(3位)リリース。自らも出演したmaxellカセットテープのCMソングとして初のトップ10ヒットを記録。

山下プロデュースによる、水口晴幸『BLACK or WHITE』リリース。COOLS ROCKABILLY CLUBから独立後、初のソロ・アルバム。『80’s JAM OVER JAPAN』に出演。

神奈川県の葉山マリーナ・エメラルドプールで『RIDE ON TIME CONCERT in HAYAMA』開催。この年の冷夏の影響を受け、寒さと豪雨という最悪のコンディションの中、約4時間決行されたため、山下にとって最も印象深いコンサートの一つになっています。

コンサート・ツアー『RIDE ON TIME CONCERT ’80-’81』スタート。全38公演。

アルバム『RIDE ON TIME』リリース。アルバム・チャート1位を記録、ソロ・デビュー4年目にしてブレイクを果たします。

アルバム『RIDE ON TIME』の収録曲「MY SUGAR BABE」(90位)が日本テレビ系ドラマ『警視-K』主題歌に使用され、リカット・シングルとしてリリース。楽曲を気に入った番組プロデューサー兼主演の勝新太郎が山下に電話で直接交渉し、ほぼ強引に使用を決めました。後に行われた番組の制作発表会見では他の出演者と共に同席させられ、後日の芸能紙やスポーツ新聞には、会見で憮然とした表情の山下の写真が掲載されました。

一人アカペラ・アルバム『ON THE STREET CORNER』(13位)を10万枚限定でリリース。一人多重録音のア・カペラによるドゥーワップ作品。これ以降、山下の一人ア・カペラはその認知度を増していきます。

前年、リリースのアルバム『MOONGLOW』(20位)が第22回日本レコード大賞のベストアルバム賞を受賞。

1982年、アルバム『FOR YOU』リリース。オリコンチャートで1位、年間アルバムチャートでも2位となり、評価を確立。

シングル「あまく危険な香り」(12位、TBS系金曜ドラマ『あまく危険な香り』主題歌)リリース。

竹内まりやと結婚。竹内には楽曲提供だけでなく、同じRVC所属シンガーのレコーディングにコーラスとして揃って駆り出されるなど、関わる機会が多くなる中で懇意となり、既に結婚のおよそ2年前から山下のマンションで同棲生活を送っていました。

TBSラジオ『サウンズウィズコーク』レギュラー開始。

山下作詞、作・編曲、プロデュースによるフランク永井のシングル「WOMAN」リリース。

松本隆作詞、山下作・編曲による近藤真彦の7枚目のシングル「ハイティーン・ブギ」リリース。カップリングの「Momoko」も松本作詞、山下作・編曲作品。近藤主演の同名映画の主題歌。近藤もディレクター小杉の担当するシンガーの一人でした。

初のベスト・アルバム『GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA』(2位)リリース。RVC最後の作品。

RVCとの契約を解消。小杉がRVCから独立、アルファレコードの村井邦彦とヤナセの梁瀬次郎の資金援助の下に設立したレコード会社、アルファ・ムーンに役員兼ミュージシャンとして移籍。コンサート・ツアー『Sparkling ’82-’83』スタート。全18公演。

1988年、山下プロデュース作3曲を収録した鈴木雅之のセカンド・アルバム『Radio Days』リリース。

シングル「GET BACK IN LOVE」(6位、TBS系ドラマ『海岸物語 昔みたいに…』主題歌)リリース。

作曲・プロデュースを手掛けたアカペラ・グループ「14カラット・ソウル」のシングル「THE GIRL IN WHITE」リリース。後にアルバム『僕の中の少年』にてセルフ・カバー。

鈴木雅之『Radio Days』からのリカット・シングル「Guilty」リリース。

アルバム『僕の中の少年』(1位)リリース。

JR東海のクリスマス・キャンペーンCMソングに「クリスマス・イブ」が使われヒット。以後、日本のクリスマス・ソングのスタンダード・ナンバーの一曲となります。コンサート・ツアー『PERFORMANCE ’88-’89』スタート。全39公演。

1989年、『僕の中の少年』からのリカット・シングル「新・東京ラプソディー」リリース。

シングル「おやすみロージー -Angel Babyへのオマージュ-」(22位)リリース。

80年代のホールツアーの記録を集大成したライブ・アルバム『JOY –TATSURO YAMASHITA LIVE–』(3位)リリース。

12月、「クリスマス・イブ」が、JR東海のクリスマスCMに再度使用され、オリコン・シングルチャートでランクインから30週かけて1位を獲得。以後4週連続で1位を記録。

1992年、シングル「アトムの子」(18位、キリンゴールデンビターCMソング)リリース。カップリングには「BLOW」(TBS系TV『アメリカズ カップ’92』テーマソング)を収録。

JFN系『サタデー・ソングブック』(毎週土曜15:00-15:54)開始(1994年3月26日まで)。

竹内まりやのアルバム『Quiet Life』リリース。オリコン・アルバムチャートで1位を記録。

シングル「MAGIC TOUCH」(17位、maxell CD-XL イメージ・ソング)リリース。

TBS系テレビ『ビッグモーニング』のテーマ曲として「鳴かないでHERON」オンエア開始。

シングル「ジャングル・スウィング」(22位、日産SKYLINEイメージ・ソング)リリース。

一人アカペラとフル・オーケストラで構成されたクリスマス・シーズン向けの企画アルバム『SEASON’S GREETINGS』(4位)リリース。

「クリスマス・イブ」が、TBCクリスマス編CMに使用されます。

TBSラジオの番組『赤坂ライブ』「150回記念スペシャル」としてTBSホールで開催された『山下達郎 〜クリスマスイブ・スペシャルミニライブ〜』に出演

1997年、1982年リリースのベスト・アルバム『GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA』をボーナス・トラック付き、デジタルリマスター盤にて再リリース。1990年のCD化に際して内容が大幅に変更されたことを巡り、前所属先のBMGビクターとの訴訟問題にまで発展したが1995年に和解が成立。これを機に、山下自身の監修によるRCA ⁄ AIR時代のカタログのリマスター作業が始まります。

松本隆作詞、山下作・編曲、プロデュースによるKinKi Kidsのデビュー・シングル「硝子の少年」リリース。初登場1位、シングルチャート100位以内に31週間ランクインされるロングヒットとなります。「ひととき」がJACCSカードのCMに採用されます。

2012、結婚30周年(真珠婚)を迎えます。

『サンデー・ソングブック』“東日本大震災1周年 追悼と復興祈念のプログラム”が、『第38回 放送文化基金賞』(主催:公益財団法人 放送文化基金)にて、「ラジオ番組 優秀賞」(番組部門)と「出演者賞」(番組部門 個別分野)の2部門を受賞。贈呈式には山下の代理としてスマイルカンパニー社長小杉理宇造が出席し、本人のメッセージを代読。この中で出演者賞の賞金(10万円)を震災復興支援のため全額、日本赤十字社へ寄付することが併せて発表されました。

全国13か所のティ・ジョイ系シネコンで、ライブ映像による初のシアター・ライヴ『PERFORMANCE 1984-2012』(制作:ワーナーミュージック・ジャパン / スマイルカンパニー、配給:東映)を1週間限定で開催。ミニシアターランキング(興行通信社発表)で興行成績1位を獲得するなど予想を越える大ヒットとなり、開催が延長されたほか、渋谷TOEIで1週間の追加上映が行われました。

2年ぶりの野外フェス参加となる『SWEET LOVE SHOWER 2012』(山梨県・山中湖交流プラザきらら)に出演。ステージ中盤には竹内まりやがサプライズ・ゲストとして登場、2曲を披露しました。

シュガー・ベイブ「DOWN TOWN」から新作「愛を教えて」(テレビ朝日系木曜ドラマ『遺留捜査』主題歌)まで、レーベルを超えて選曲された初のオールタイム・ベスト『OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012〜』(1位)リリース。

シアター・ライヴ『PERFORMANCE 1984-2012』の好評を受けて、TOHOシネマズ系、109シネマズ系を含む全国19か所のシネコンで再映。

『サンデー・ソングブック』が放送20周年を迎えます。

『OPUS』通常盤にクリスマス・デザインの三方背ボックスで包装した、クリスマス期間限定パッケージが販売開始。

2003年リマスター盤シングルをクリスマス特別ボックス包装した、シングル「クリスマス・イブ」のクリスマス期間限定パッケージが販売開始。

2020年、アルバム『POCKET MUSIC』『僕の中の少年』のリマスター盤を『POCKET MUSIC (2020 Remaster)』(9位)『僕の中の少年 (2020 Remaster)』(8位)として同時発売。

2021年、アルバム『ARTISAN』発売から30周年を迎えた2021年、リマスター盤を『ARTISAN -30th Anniversary Edition-』(3位)として発売。

「クリスマス・イブ」の2021年バージョンが、期間限定商品として発売されます。

2022年、山下の書下ろし3曲を含む木村拓哉のセカンド・アルバム『Next Destination』リリース。

ホール・ツアーとしては3年ぶりとなるコンサート・ツアー『PERFORMANCE 2022』スタート。全国24都市47公演。

2011年8月にリリースされた『Ray Of Hope』以来実に11年ぶりとなるオリジナル・アルバム『SOFTLY』リリース(予定)。2021年12月にレギュラーラジオ番組『サンデー・ソングブック』の1500回記念として行われたアコースティックライブから7曲の音源を収めた“プレミアムCD”付きの初回盤、および通常盤の2仕様でリリースされるほか、2枚組アナログ盤、カセット・テープも同時リリース。

やはり、山下達郎といえば、「クリスマス・ソング」。今年も、流れるのかな〜〜〜。



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シティー・ポップの名人達‼️‼️‼️

引用

『シティー・ポップ』特集を行いたいと思います。名作揃いです。

大瀧詠一

1948年、岩手県生まれ。70年代に日本語ロックのパイオニア『はっぴいえんど』のメンバーとして活躍。ソロとしても成功し、80年代は、ソングライターとして活躍しました。1981年、アルバム『A LONG VACATION』が2位を獲得しました。2013年没。享年65歳。

竹内まりあ

1955年、島根県生まれ。1979年、3枚目のシングル「SEPTEMBER」(39位)を発売し、この曲はトップ100圏内に半年近くチャートインし続け、同年12月31日に開催された第21回日本レコード大賞で新人賞を獲得するに到りました。1980年には、資生堂の化粧品のCMソングとなったシングル曲「不思議なピーチパイ」(3位)がヒットしました。アルバム『LOVE SONGS』(1位)も大ヒットしました。

松任谷由実

1954年、東京都生まれ。1970年代は、荒井由美として活動。後半期に、松任谷正隆と結婚。1981年のアルバム『昨晩お会いしましょう』(1位)から、シングル「守ってあげたい」(2位)が大ヒット。90年代にもヒットを量産。シティーポップの女王として、活躍しました。

杏里

1961年、神奈川県生まれ。幼少時からピアノを習い、長兄の影響でドライブの時によく聴いていたポール・モーリアをよくコピーしたり、フォーク、ニューミュージックが盛んな時代で、松任谷由実(当時は荒井由実)、尾崎亜美、風、かぐや姫、吉田拓郎、井上陽水などの邦楽や洋楽など、あらゆる楽曲を聴いて育ちました。1983年、アニメ『キャッツ♥アイ』の同主題歌が1位となり、人気を確立。アルバム『Timely!!』も1位の大ヒットとなりました。

今、海外では『シティー・ポップ』がブームだそうです。あなたも如何ですか❓



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