不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

日本のR&Bの女王

引用

アメリカで、誕生したR&B/ソウル。1950年代に、レイ・チャールズ、ジェイムス・ブラウン、サム・クック、スティーヴィ・ワンダーなどが隆盛を極めていました。

そんな、R&B/ソウルが日本で花を咲かせます。それは、意外にも女性でした。その名は、『和田アキ子』。

1950年、大阪天王寺区舟橋町で産まれます。大阪市真田山小学校卒業、私立城星学園中学校に進学するも父親が勝手に退学届を出した為,在学期間は、2、3日で途中退学となりました。

小学5年生の頃に洋楽に憧れ、15歳の頃からジャズ喫茶やゴーゴークラブで歌い始めます。174mの身長から発せられるパワフルな歌声が評判を呼び、ホリプロ社長堀威夫直々にスカウトされます。当時は、グランプリズ(夏夕介も在籍)というバンドを組み、大阪と神戸三宮で活動していましたが、実際にデビューできたのは和田と夏だけでした。

デビュー当時のキャッチフレーズは、『和製リズム・アンド・ブルースの女王』。1968年、「星空の孤独」(70位)でデビュー。69年、2枚目のシングル「どしゃぶりの雨の中で」(19位)が17万枚のスマッシュヒットを記録。

1970年、20歳になり映画『女番長・野良猫ロック』で初主演を果たします。また、「笑って許して」(11位)で、『第12回日本レコード大賞・編曲賞を受賞し、NHKの『第21回紅白歌合戦』に初出場を果たします。以降、78年まで連続出場します。71年、「天使になれなれない」で初のオリコンシングルチャート10位内(8位)を獲得。

1972年、「あの鐘を鳴らすのはあなた」(53位)で『第14回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞』を受賞。1973年から日本テレビ『金曜10時!うわさのチャンネル!!』出演。番組内で『ゴッド姉ちゃん』と呼ばれ、これを嫌がった和田は1979年に日本テレビへ強引に、降板をを申し入れまする。その後,レギュラー出演していましたがバラエティー番組を全て降板し、歌手活動に専念します。

その後、「さすらいのブルース」(28位)「貴方ひとりじめ」(28位)、「卒業させてよ」(39位)、「夜明けの夢」(10位)、「孤独」(43位),「古い日記」(44位)とヒットを重ねていきます。

1985年久々もなるバラエティ番組TBS『アッコにおまかせ!の司会を担当します(現在でも放送中)。また、1986年、紅白歌合戦に1978年依頼8年ぶりの出演を果たし、以後、2015年まで出場します。2005年には、m-floとのコラボ曲「Hey!」(9位)が大ヒット。2018年には、BOYS AND MEN研修生とのコラボ曲「愛を頑張って」がオリコンシングルチャートでこれまでの最高位である2位を記録。

現在でも,沢山のバラエティ番組に出演し、活動しています。



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GSブームのパイオニア

引用

日本には、1960年代『ザ・ベンチャーズ』来日によりエレキブームが訪れ、それにより”グループ・サウンズ”ブーム(GSブーム)が一世を風靡します。その中でも、『ザ・スパイダース』は、ハシリのバンドです。

1961年に、スウィング・ウェストのドラムスであった田辺昭知によって結成。翌62年にかまやつひろしにらメンバー加入とメンバー探しを依頼します。

同年、井上孝之が神戸から上京、すぐに訪れた池袋のジャズ喫茶「ドラム」にてその日出演していたザ・スパイダースの演奏に感動、すぐに加入を志願し認められます。

この次に田辺が目をつけたのが、ホリプロから新人デビューしていた堺正章でした。しかしその父堺駿二の存在があった為、当初加入を持ちかけでも良い返事は貰えず、ついに田辺は堺の家に通い詰めることで加入を実現させます。

この頃にもう1人のターゲットとなったのが孝之の知り合いであり、京都で名を馳せていた大野克夫で、田辺はすぐ関西に飛びこれまで同様の情熱的な姿勢で加入を求めました。ベースの欠員が出た為、1963年に大野の前バンド時代の先輩で、音楽活動を引退し寿司職人修行を始めていた、加藤充が,田辺のスカウトで加入します。まもなく、ゲストシンガーだったかまやつひろしも正式メンバーとなりました。

1964年、スパイダースに憧れた井上順が参加。脱退した伊藤源雄の代わりに、隆之がリズム・ギターに転向する事で、後に「グループ・サウンズ(GS)」と呼ばれ、人気を博すようになるメンバー7人が揃いました。

1965年、かまや作詞・作曲の「フリフリ」でクラウンからシングルデビュー。当時としては、斬新な音楽性に加え、ミリタリ・ルックをいち早く取り入れるセンスの良さ、コミカルタッチな演出をも得意とする実力派バンドとして評価されます。

1966年、「ノー・ノー・ボーイ」、「ヘイ・ボーイ」、「サマー・ガール」とブリティッシュ・ビートの影響を大きく受けた、かまやつ作品によるシングルがリリースされましたが、芳しいセールスには繋がりませんでした。しかし、浜口庫之助作品『夕陽が泣いている』が公称120万枚を超える大ヒットとなり、一躍スターダムにのし上がります。

1967年、「太陽の翼」、再び浜口庫之助作品である「風が泣いている」(公称70万枚』と順調なセールスを続け、さらに、「あの時君は若かった」(6位)、「いつまでもいつまでも」(4位)、「ガラスの聖女」(50位)とヒットを連発。映画『夕陽が泣いている』、初主演映画『ザ・スパイダースのゴー・ゴー向こう見ず作戦』が公開されるなど順風満帆と思えましたが、ライバルの『ジャッキー吉川とブルーコメッツ』の「ブルー・シャトー」で150万枚の大ヒットを記録。さらに、『ザ・タイガース』『ザ・ガーナビーツ』『ザ・テンプターズ』『ザ・ジャガーズ』などの10代後半〜20代前半の若手グループが次々と台頭してきたことで『グループ・サウンズ(GS)』ブームが巻き起こり、ザ・スパイダース、ブルーコメッツといった、当時としては年齢層の高いグループが徐々に窮地に立たされていく展開を迎えていきます。

その後、それぞれのその活動を始動し、1970年に解散。

堺正章は、71年に「さらば恋人よ」(2位)、73年「街の灯り」(20位)とヒットを連発。

井上順も、71年に「お世話になりました」がヒット。

井上陽水孝之は、名を『井上尭之』と改めて、1979年に、「ドリーマー」、「終わりのない旅」。バンドとしては井上堯之バンドで、「太陽にほえろ」(24位)、「傷だらけの天使」(24位)とヒットを連発しました。

かまやつひろしは、70年に「どうにかなるさ」(50位)、「シンシア(よしだたくろうと共演)」(21位)、「我が良き友よ」(1位)とヒットさせます。

その後も、個々にタレント活動を展開。現在でも活躍しています。



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ブルージーなロックンロール

引用

1970年、アメリカニューハンプシャー州サナピー湖にあるクラブ「ザ・バーン」で友人関係であったギターのジョー・ペリーとペリーのトム・ハミルトンらによるバンド「ザ・ジャムバンド」演奏にスティーブン・タイラーが観にきており、彼を新バンドのらボーカルに迎えいれたことが「エアロスミス」の始まりでした。

スティーブンは、すでに別のバンドでドラムス兼ボーカルとして活躍しており、地域で知名度がありました。この新バンドでスティーブンはフロントマンに徹し、ドラムスにジョーイ・クレイマー、もう一腹のギタリストにレイモンド・タバーノが加入します。バンド名は、ジョーイが高校時代からイメージしていたバンド名に因んで『エアロスミス』に決まります。バンドロゴは、レイモンドの原案が取り入れられました。

71年、レイモンドが脱退。バンドは新たなギタリストとしてブラッド・ウィットフォードを迎えます。これにより,オリジナルバンドが揃いました。72年に、コロンビアレコードと契約を結び、バンドはデビューの足掛かりを掴みます。

1973年にデビューアルバム『野獣生誕』(全米21位)リリース。アルバムからシングル「ドリーム・オン」がアメリカ東海岸地区のロック系ラジオ中心として注目されて全米59位まで上昇するヒットとなります。

74年には,『飛べ!エアロスミス』(全米74位)リリース。1年以上に渡って全米アルバムチャート200位以内に入り続け,ロングヒット作品となります。

1975年、3作目となる『闇夜のヘヴィ・ロック』(全米11位)リリース。シングル「ウォーク・ディス・ウェイ」(全米10位)、「スイート・エモーション」(全米36位)がヒット。アルバムもプラチナ・ディスクを獲得。この勢いで、前2作アルバムのセールスもセールスが上がり、シングル「ドリーム・オン」が全米6位まで上昇します。なお、日本では『飛べ!エアロスミス』でデビュー作です。

76年、全米ツアー開始。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでライブを開催。その後、5作目となる『ロックス』(全米3位)リリース。「ラスト・チャイルド」、「ホーム・トゥナイト」、「バック・イン・ザ・サドル」もヒット。日本でも知名度が上がり、『クイーン』、『キッス』と共に“3大バンド”としての人気を博します。その後、初のヨーロッパライブも開始します。

人気拡大と共にバンド活動に2度目のヨーロッパツアーを含む大規模ツアーが組み込まれ、その合間にレコーディングが行われるという過酷なスケジュールになり、以前から使用していたドラッグスの使用頻度が増えていきます。そのような中、77年『ドロー・ザ・ライン』(全米11位)リリース。しかし、79年にバンド内で喧嘩が発生。ジョーがバンドを脱退する事態に陥ります。ジョーは、新たに「ジョー・ペリー・プロジェクト」を立ち上げバンドは、ライブ活動を開始します。

エアロスミスは、新たなギタリストとしてジミー・クレスポを迎え入れ、6作目となるアルバム『ナイト・オン・ザ、ラッツ』(14位)リリースします。1980年ジョーは、デビューアルバム『熱く語れ!』リリース。一方、エアロスミスはスティーブンの負傷によりバンドは一時活動を停止。初のベスト盤『グレイテスト・ヒッツ』(全米43位)をリリースします。

81年、ブラットがデレク・セント・ホルムズとアルバム『ウィットフォード/ホルムズ」をリリースし、バンドを脱退。一方ジョーは、2作目『忘れじのロックン・ロール』をリリース。エアロスミスは,82年にブラッドに代わるギタリストとしてリック・デュファイを迎え7作目『美獣乱舞』(全米32位)をリリース。83年ジョーは、3作目『いつまでも熱く』リリース。

84年、エアロスミスにジョーとブラッドボストン公演に訪れ、話し合いの場がもたれオリジナルメンバで再始動となります。諸条件を整えてツアーを再開。レコードレーベルをゲフィン・レコードに移籍。1985年、デッド・テンプルマンをプロデュースに迎え8作目『ダン・ヴィズ・ミラーズ』(全米36位)リリース。

86年、Run-D.M.Cが、「ウォーク・ディス・ウェイ」カバーし、スティーブンとジョーもプロモーションビデオに参加。シングルは,全米4位まで上昇する大ヒットとなり、エアロスミスが音楽界の第一線にカムバックします。87年、プロデュースにブルース・フェアバーンを迎え、9作目『パーマネント・バケーション』(全米11位)リリース。「エンジェル」、「ラグ・ドール」「デュード」が大ヒット。アルバムも1000万枚を超える大ヒットとなります。

1989年10作目『パンプ』(全米5位)リリース。全世界で1100万枚を超えるセールスを記録し、「エラヴェイター・ラブ」、「ジェイニーズ・ガット・ア・ガン」、「アザー・サイド」、「ホワット・イット・テイクス」のシングルがヒット。12年ぶりのヨーロアツアーと初のオーストラリアツアーも行われました。

1990年、「ジェイニーズ・ガット・ア・ガン」がグラミー賞を受賞します。まだMTVビデオ・ミュージック・アウォードも受賞します。91年には、「アザー・サイド」がMTVミュージックアウォードを受賞。初のボックス・セット『パンドラの箱』をリリース。

1993年には、11作目『ゲット・ア・グリップ』リリース。初の全米1位を獲得。前作を超える1600万枚を売り上げ、シングルとしても、「リヴィング・オン・ジ・エッジ」、「クライン」、「「アメイジング」等が、立て続けにヒット。翌94年に、グラミー賞を受賞します。

1997年には、レコードレーベルをデビュー当時のコロンビア・レコードに変わり、プロデューサーを、ケヴィン・シャーリーを迎え、12作目『ナイン・ライブズ』(全米1位)リリース。同年に、スティーブンの娘でモデル兼女優の、リブ・タイラー出演の映画『アルマゲドン』の主題歌「ミス・ア・シング」をリリース。バンド史上初となる全米4週連続1位を獲得。99年に、『ナイン・ライブズ』収録の「ピンク」がグラミー賞を受賞。

2001年、13作目『ジャスト・プッシュ・プレイ』(全米2位)リリース。シングル「ジェイデッド」が全米7位のヒットとなります。また、同年に『ロックの殿堂』を果たします。2002年には、映画『スパイダーマン』のテーマ曲「スパイダーマンのテーマ」をカバー。

2004年には、カバーアルバム『ホンキン・オン・ボーボゥ』(全米5位)リリース。2005年には、ジョーがソロアルバム『ジョー・ペリー』をリリース。

2012年、『ジャスト・プッシュ・プレイ』以来11年ぶりとなる14作目『ミュージック・フロム・アナザー・ディメンション!』(全米5位)リリース。

その後も、ライブやイベントなど色々な活動を行い、今でも現役で活躍中です。



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スターから平和の象徴へ

引用

1960年代、世界中を席巻したバンド『ザ・ビートルズ』。

ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、そして今回の主人公が『ジョン・レノン』です。

出生名は、ジョン・ウィンストン・レノン。ビートルズの立ち上げ時のメンバー兼リーダーであり、ポールとは、『レノン=マッカートニー』としてもソングライティングチームを組み、多くの楽曲を作曲しました。

ビートルズ時代には、「抱きしめたい」(英米1位)、「シー・ラブズ・ユー」(英米1位)、フロム・ミー・トゥ・ユー」(全英1位、全米70位)、リード・ボーカルを取る「プリーズ・プリーズ・ミー」(全英2位、全米3位)、「ハード・デイズ・ナイト」(英米1位)、「エイト・デイズ・ウィーク」(全米1位)、「ヘルプ」(英米1位)、「涙の乗車券!」(英米1位)、「アイ・フィール・ファイン」(英米1位)、「イン・マイ・ライフ」、「ノルウェーの森」、「ひとりぼっちのあいつ」(全米3位)、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」、「愛こそはすべて」(英米1位)、「ストロベリー・フィールズ、スゴイ・フォーエバー」(全米8位)、「アイ・アム・ザ・ウォルラス」(全米56位)、「レボリューション」(全米12位)、「カム・トゥゲザー」(英米1位)、「ジョンとヨーコのバラード」(英米1位)、「ドント・レット・ミー・ダウン」(全米35位)、「アクロス・ザ・ユニバース」などがあります。

1940年、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバプールで,アイルランド系のアルフレッド・レノンとイングランド人のジュリア・スタンリーの間に誕生します。

ジョンは1952年、グラマー・スクールのクオリー・バンク校入学。ジョンの少年時代のイギリスでは、ロニー・ドネガンの「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットし、スキッフル・ブームが起きました。さらにジョンは1956年、エルビス・プレスリーの「ハードブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受け,初めてのギターとなるギャルドローン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入します。57年初めての作詞・作曲「ハロー・リトル・ガール」でした。

同年、クオリーバンク校で級友たちとスキッフル・グループ「クオリーメン」を結成。その後、バンドのライブを見にきていた、ポール・マッカートニーを紹介されます。そして、58年にポールの紹介でジョージ・ハリスンが加入します。

この頃から、リバプーだけではなく、西ドイツのハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めます。1960年、スチュワート・サトクリフがベースとして加入。バンド名をクオリーメンから、「ジョニー&ザ・ムーン・ドックス」や「ザ・シルバー・ビートルズ」と名乗るようになり、この時、ピート・ベストがドラムスとして加入。

61年、スチュアートが脱退、画家を目指します。ジョンは、ポールを説得してベーシストへ転向。この頃から、ドイツで活動していたトニー・シェリダンのバックバンドとして「マイ・ボニー」などの曲をレコーディングします。

同年に、ジョンたちは,「マイ・ボニー」を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結びます。1962年、『ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ』のドラムスであるリンゴ・スターを加入させ、ピート・ベストを解雇します。

その後は、ご存知の通りのヒットを連発させ、1970年の解散まで活動を続け解散します。この時、ジョンはオノ・ヨーコと出会っており、後に結婚します。

1968年、ビートルズ時代から『プラスチック・オノ・バンド』を結成し、ソロ活動を開始します(バンド名は、76年まで残ります)。

69年に、「平和を我等に」(全英2位、全米14位)、「コールド・ターキー」(全英14位、全米30位)をリリース。

70年には、ビートルズ在籍中のジョージ・ハリスンを招き、「インスタント・カーマ」(全英5位、全米3位)をリリース。その後、ビリー・プレストンを招き、正式なソロ・デビュー・アルバム『ジョンの魂』(全英8位、全米6位)をリリースし、シングル「マザー」(全米43位)がひっとします。

1971年、あるバム『イマジン』(英米1位)をリリース。シングルとなった同タイトル曲が全英6位、全米3位の大ヒットとなり、平和の象徴として現在も人気のある曲となります。同年には、2作目となる『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(全英11位、全米48位」をリリース。

1974年、セルフ・プロデュースによるアルバム『心の壁、愛の橋』(全英6位、全米1位)をリリース。シングル「真夜中を突っ走れ」がエルトン・ジョンとのコラボで、全英36位、全米1位、「夢の夢」(全英23位、全米9位)が大ヒット。ライブでも共演し、話題を呼びます。

同時期、ビートルズ時代の曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」をエルトンとコラボし、全米1位を獲得します。

1975年には、カヴァー・アルバム『ロックン・ロール』(全英10位、全米6位)をリリース。シングルとなったカバー曲「スタンド・バイ・ミー」(全英30位、全米20位)がヒットします。

この頃から、デビット・ボウイと知り合い、アルバム『ヤング・アメリカンズ』でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」で共演。また、シングルとして「フェイム!」(全英17位、全米1位)と大ヒットします。

その後、息子ショーン・レノン誕生日。子育ての為に、活動を5年間休止します。この頃に、デモテープなどを作成しています。

1980年、ジョンはヨーコとの共作名義で『ダブル・ファンタジー』(英米1位)をリリース。しかし、リリース直後自宅であるニューヨークのダコタハウス前で、熱狂的なファンにより射殺されて、40歳の若さで亡くなります。その後、シングル「スターティング・オーバー」(英米1位)、「ウーマン」(英米1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(全米9位)と大ヒット。アルバムも500万枚を売り上げ、グラミー賞を受賞します。

84年には、『ダブル・ファンタジー』と同じ時期にレコーディングされた未発表曲を収録した『ミルク・アンド・ハニー』(全英3位、全米11位)をリリース。

今でも、ジョンの“ラブ・アンド・ピース”の精神は生き続けています。



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