不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

イギリスのピアノマン

引用

前回は、『アメリカのピアノマン』ことビリー・ジョエルを紹介しましたが、イギリスにも『ピアノマン』存在意義します。

彼の名は、エルトン・ジョン。出生名は、レジナルド・ケネス・ドワイト。

RAFの飛行機隊長だった父スタンリー・ドワイトと母シェイラとの間に生まれます。彼は、母親や他の親戚の女性に育てられ、父親との時間はごく僅かでした。父と母は、彼が15歳の時に離婚。母は、その後再婚します。

4歳の頃から、彼はピアノを習い始めます。彼は神童であり、耳で聴いた曲はなんでも弾ける才能を持っており、彼の教師によるとヘンデルの曲を完璧に演奏した言われています。

11歳の時に、王立音楽院に合格。職業としての音楽に専念するために、卒業前に学校からを離れるまで6年間在学しました。初期の影響を与えた人物は、ジム・リーブスなどです。ピアニストとしては,ヨハン・セバスティアン・バッハ、フレデリック・ショパンでした。

1960年に、彼は友人とコルヴァッツというバンドを結成。このバンドから,さらに『プルーソロジー』に発展します。彼は、日中は音楽出版社への売り込みに走り,夜はロンドンのホテルで単独ギクを行うか、ブルーソロジーと活動するかのどちらかでした。

60年代半ばまでは、ブルーソロジーはアイズレー・ブラザーズ、メジャー・ランス、ドリス・トロイおよびパティ・ラベル&ブルーベンズのようなアメリカのソウルやR&Bのミュージシャンのバックバンドとしてツアーを行いました。

1966年には、バンドからはロング・ジョン・ボルドリーのサポートミュージシャンとなり、イギリスのキャバレーを回るツアーを行いっています。

彼は、リバティ・レコードのA&Rマネージャーであるレイ・ウィリアムズがニュー・ミュージカル・エキスプレス誌に載せた募集広告に応募します。この頃から名をエルトン・ジョンと改名します。

1967年に、彼とパートナーであるバニー・トーピンとの最初の共作「スケアクロウ」が書かれました。ジョンとトーピンのチームは、1968年にディック・ジェイムズDJMレコードとソングライターとして契約。その2年以上、ロジャー・クック、ルルのような様々なアーティストに曲を提供します。

同年に、「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」でメジャーデビュー。1969年デビューアルバム『エンプティ・スカイ』(全米6位)と「レディ・サマンサ」をリリース。

1970年には、プロデュースにガス・ダッジョン、アレンジャーにポール・バックスターを迎えた2ndアルバム『僕の歌は君の歌』(全英4位、全米11位)をリリース。全米では、先行シングルとなった同タイトル曲が全英7位、全米8位を記録する大ヒットとなりました。

同年には、『エルトン・ジョン3』をリリースし、全英6位、全米5位と大ヒット。ヒット曲こそ出ませんでしたが、着実に人気を獲得していきます。

1972年からは、ギタリストのデイヴィー・ジョンストンを迎えて、彼の全盛期を支えるバンドが完成します。同年『ホンキー・シャトー』をリリース。彼にとって初の全米1位(全英2位)を獲得。ここから、シングルとなった同タイトル曲(全英31位、全米8位)、「ロケット・マン」(全英2位、全米6位)となる大ヒットとなりました。

1973年には、『ピアニストを撃つな!』(英米1位)をリリース。年間チャート1位を獲得。ここからも、シングル「クロコダイル・ロック」(全英5位、全米1位)、「ダニエル」(全英4位、全米2位)のこれも大ヒットとなります。

そして同年、初の2枚組アルバム『黄昏のレンガ道』(英米1位)をリリース。同タイトル(全英6位、全米2位)、「土曜の夜は僕の生きがい」(全英7位、全米12位)、「ベニーとジェッツ(やつらの演奏は最高』」(全米1位)、「風の中の火のように(孤独な歌手、ノーマ、ジ・ン)」(全英11位)とヒット曲を量産。特に、「風の中の〜」は、リメイクやライブシングルがヒットし、アルバムも最高傑作となり、全世界で2000万枚を超えるモンスターアルバムとなります。74年には、『グレイテスト・ヒッツ』(英米1位)を記録し、全世界で、3400万枚のビックセールスとなりました。

また、75年の『キャプテン・ファンタスティック』は、全米ビルボードのアルバムチャートで、史上初となる初登場1位を記録します。シングルも「僕を救ったプリマドンナ」(全英22位、全米4位)とヒット。またアルバム『カリブ』(英米1位)もリリース。シングル「僕の瞳に小さな太陽」(全英16位,全米2位)、「あばずれさんのお帰り」(全英15位、全米4位)とこちらも大ヒットとなりました。

同75年には、『ロック・オブ・ザ・ウェステーズ』(全英5位、全米1位)をリリース。ここからも、シングル「アイランド・ガール」(全14位、全米1位)、「今夜は怖いぜ!(国共の町酒場)」(全米14位)がヒット。シングル単体としては、「フィラデルフィア・フリーダム」(全英12位、全米1位)をリリース。

他のアーティストとのコラボレーションも盛んに行い、ニール・セダカ共演の「バッド・ブラッド」(全米1位)、ジョン・レノンとの共演による「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」(全英10位、全米1位)をそれぞれ記録。

74年には、ザ・フーの『ロックオペラ“トミー”』を映画化。ピンボールのチャンピオン役を演じ、大ヒット。76年には、キキ・ディディとのデュエット曲「恋のデュエット」が初の全英1位(全米1位)を獲得。全盛期を迎えます。

しかし、『ロック・オブ・ザ・ウェステーズ』は成功したものの、評論家からは酷評され、そのプレッシャーから心に迷いが生じたのか、76年の『蒼い肖像』(英米3位)リリース後、一度引退を宣言(シングル「悲しみのバラード」(英米3位)もヒット)。

約2年の活動休止期間を経て,78年には『シングル・マン』をリリース。(英米8位)シングル「パート・タイム・ラブ」(全英15位、全米21位)」、「ソング・フォー・ガイ」(全英4位)とヒット。

しかし、79年の『恋に捧げて〜ヴィクテム・オブ・ラブ』(全英41位、全米20位)は当時流行していたディスコサウンドを取り入れますが、セールス的には成功しませんでした。

1980ねんにはいると、トーピンとの狭窄が復活。『21at33』(全英12位、全米21位)は、シングル「リトル・ジニー」(全英33位、全米3位)がヒットします

83年には、『トゥー・ロウ・フォー・ゼロ』(全英7位、全米25位)、84年『ブレイキング・パーツ』(全英2位、全米20位)、『アイス・オン・ファイアー』(全英3位、全米48位)とヒットアルバムを連発。『トゥー・ロウ〜』からは、「ブルースはお好き?」が全英5位、全米4位の大ヒットを記録します。

しかし,長期公演が影響して喉を悪化させてしまい、整体手術を受け、これによりヴォーカルスタイル歌声が変化します。89年には、『スリーピング・ウィズ・ザ・パスト』(全英1位、全米24位)をリリース。シングル「サクリファイズ/ヒーリング・ハンズ」(全英1位、全米18位)がヒットするも、70年代の全盛期と比べられ事が原因となり、過食症とアルコール依存症に陥り、活動を一時中止します。

1990年治療のため入院。更生施設への入居を経てがバック後、ジョージ・マイケルとのライブシングル「僕の瞳に小さな太陽」が英米1位を獲得。92年にアルバム『ザ・ワン』(全英2位、全米8位)をリリース。エリック・クラプトンとの共演曲「ランナウェイ・トレイン」(全英31位)、「ザ・ワン」(全英10位、全米9位)と話題を呼びます。

94年には、ディズニー映画『ライオン・キング』のサウンドトラックを担当。シングル「愛を感じて」(全英14位、全米4位)、「サークル・オブ・ライフ」(全英11位、全米18位)と大ヒットを記録。アカデミー賞、グラミー賞を受賞。

95年には、『メイド・イン・イングランド』(全英1位、全米13位)をリリース。シングルとしても、同タイトル曲(全英18位、全米52位)、「ビリーブ」(全英15位、全米13位)がヒットします。

1997年には,ダイアナ元皇太子妃の追悼歌「キャンドル・イン・ザ・ウィンドウ’97」(英米1位)をリリース。これが全世界で爆発的な大ヒットを記録。これは、『黄昏のレンガ道』の収録曲「風の中の火のように」を、歌詞を変えてリメイクし、3700万枚の世界記録となり、カップリング曲「ユー・ルック・トゥナイト」が収録されていたアルバム『ザ・ビッグ・ピクチャー』(全英3位、全米8位)も相乗効果デビットを記録します。

その後も、色々なアーティストとコラボレーションをしたり、2010年には、レオン・ラッセルとの共作『ザ・ユニオン』(全英12位、全米3位)をリリース。2016年には、『ワンダフル・クレイジー・ナイト』(全英6位、全米8位)をリリースしています。

2019年には,自伝映画『ロケット・マン』のエンディング曲で、エルトン役のタロン・エガートンとの共演曲「(アイム・ゴナ)ラブ・ミー・アゲイン」をリリース。アカデミー賞を受賞するなど、現在でも現役で、活躍中です。



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アメリカのピアノマン

引用

1970年代の、シンガーソングライターブームは凄まじく,幾多のアーティストが登場した。中でもピアニストによるヒットが多かったのが特出する所です。

特に、『ビリー・ジョエル』の人気は大変に凄いものでした。

本名:ウィリアム・マーティン・ジョエル。ナチスドイツから、逃げてきたユダヤ系の父親ハワード・ジョエル、宝石店を営む同じくユダヤ系のロザリンド・ハイマンのもと、ニューヨークで生まれます。

父は、クラシックに長けており、ビリーも母の要求でピアノを始めるようになります。スポーツより音楽に興味があり、少年時代はいじめにあっており、自衛のためにボクシングを習っていた。

14歳の時にバンド『エコーズ』に参加。ヒックスヴィル高校で学んでいましたが,バーでピアニストとして働いていたために英語の単位を落とし、中退。

ミュージシャンとしては、故郷のロングアイランドで活躍していた『ハッスルズ』のメンバーとして活動した後,彼と共にグループ内で活動していたドラムスのジョン・スモールと、ハードロックユニット『アッティラ』を結成し、2枚のアルバムを発表しますが、鳴かず飛ばずで結局解散します。

アーティ・リップという人物に才能を見出され契約を交わし、彼のプロデュースによりデビューアルバム『ゴールド・スリープ・ハーバー』(全米158位)をリリースし、その活動を開始さします。

ビル・マーティンと言う名義で、クラブを中心にライブ活動を行なっていた彼は、コロンビア・レコードと契約を更新。そして、1973年に『ピアノマン』(全米27位)で再デビュー。タイトル曲が全米トップ30位ないというスマッシュヒットとなります。翌74年の『ストリートライフ・セレナーデ』(全米35位)と共にアルバム『ピアノマン』は、ゴールドディスコに輝きます。

1975年に、4枚目のアルバム『ニューヨーク物語』(全米122位)をリリース。このアルバムは,当初シカゴのプロデューサー、ジェイムス・ウィリアム・ガルシオがプロデュースとして携わっていましたが、最終的にはビリー1人で仕上げました。このアルバムからは、「さよならハリウッド」「ニューヨーク物語」のヒットが生まれます。

1977年にリリースされた5枚目のアルバム『ストレンジャー』によって、ビリーは一躍スターダムにのし上がります。ポール・サイモンのグラミー賞受賞作『時の流れに』などを手がけたフィル・ラモーン起用したこのアルバムは、全米2位まで上昇すること大ヒットを記録。シングル「素顔のままで」が全米3位にランクインされ大ヒット。グラミー賞を受賞します。

1978年、『ニューヨーク52番街』をリリース。このアルバムで、初の全米1位に輝きます。シングルとしては,「マイ・ライフ」(全米1位)「オネスティ」(全米24位)を記録します。このアルバムも、グラミー賞を受賞。2枚のアルバムの成功を受け,78年には、日本武道館でのライブを行い人気が爆発します。

1980年、『グラス・ハウス』(全米1位)をリリース。これまでのジャズ基調のスタイルから脱皮し、よりソリッドなサウンドに徹したらこのアルバムはで再びグラミー賞を受賞。隆盛を極めます。シングル「ロックン・ロールは最高さ」は彼にとって初の全米1位を獲得します。

ライブアルバムを挟んで、1982年に『ナイロン・カーテン』(全米7位)をリリース。シングル「アレンタウン」(全米17位)、「プレッシャー」(全米20位)がヒットします。

1983年には、『イノセント・マン』(全米4位)をリリース。シングル『アップタウン・ガール」(3位)「あの娘にアタック」(全米1位)が大ヒット。再びグラミー賞を受賞します。

1985年初のベスト盤『ビリー・ザ・ベスト』(全米6位)まで上昇。年間チャートで4位を記録。2300万枚を売りげます。

1986年には、『ザ・ブリッジ』(全米7位)をリリース。シングル「ディス・イズ・ザ・タイム」(全米18位)を輩出します。

1989年には、『ストーム・フロント』(全米1位)をリリース。長年に渡りプロデューサーとして携わっていたフィル・ラモーンに変わり、フォリナーのミック・ジョーンズを起用。シングル「ハートにファイア」(全米1位)が大ヒットします。

それから4年後、『リヴァー・オブ・ドリームス』(全米1位)をリリース。同タイトル曲が全米3位を記録します。この2年後に、阪神・淡路大震災を経験。その後、寄付などの活動を行います。

その後は、ベスト盤、クラシックアルバムなどをリリースしますが、アルコール中毒と鬱病などで一時勝ち道を中心します。

2006年、マディソン・スクゥエア・ガーデンにて、1月から4月にかけて行ったライブを収録した『12ガーデンズ・ライブ』(全米14位)をリリースします。

2007年に、久々の新曲「オール・マイ・ライフ」をリリース。ビルボードのシングルセールスチャートで1位を獲得。

2013年には、「ケネディー・センター名誉賞」を受賞します。2015年には、ニューヨーク州ロングアイランドのストーンブルック大学から音楽の名誉博士号を授与されました。

同年、独立記念日のパーティ時に2009年から交際していたアレクシス・ロデリックと結婚しました。

現在でも、ポール・マッカートニーやエルトン・ジョンなどとライブ共演を実現。活動を続けています。



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意外と、ブレイクのキッカケは日本だった

引用

日本に、ビートルズやローリング・ストーンズが根付いてから、7年余り。ツェッペリンやパープルなどのハードロックバンドが、隆盛を極めていました。

そんな中、イギリスでとある一つのバンドが産まれようとしていました。それが、『クイーン』です。

クイーンの母体となったのは、ギタリストのブライアン・メイとドラムスのロジャー・テイラーが在籍していたバンド『スマイル』でした。1969年、スマイルがシングル『Earth』(B面は「Step On Me」)をリリース。これはまったく成功せず、ボーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退。

その後任として、加入したのがスタッフェルの同級生でバンドとも知り合いだったフレディ・マーキュリーでした。1970年、「クイーン」と名乗り始める。

1971年,入れ替わりを繰り返していたベーシストがオーディションでジョン・ディーコンに固定。クイーンの英公式サイトでは、4人が揃ったこの1971年を正式なバンド結成の年としています。

1973年,アルバム『戦慄の女王』(全英24位、全米83位)デビュー。先行シングルとして『炎のロックンロール』がリリースされ、日本での発売は1974年でした。

本作リリース当時、イギリスでは「ロックなのに曲構成が複雑で、サウンドに小細工が多い」「ディープ・パープル、レッド・ツェッペリンの亜流」などとメディアから酷評され、「遅れてきたグラムロックバンド」と見られることもありました。また、彼らは本作制作から発売までに2年近くももたつき、レコード契約から1年以上待機させられたため「発売時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた」と後にマーキュリーが回想しています。

74年、2作目のアルバム『クイーンII』(全英5位,全米49位)リリース。イギリスのメディアの評価はいっこうに変わらなかったが、シングル曲「輝ける7つの海」(全英10位)のヒットもあり、アルバムはヒットします。

74年、3作目のアルバム『シアー・ハート・アタック』(全英2位、全米12位)をリリース。先行シングル『キラー・クイーン』が全英2位、全米12位のヒットとし,後にマーキュリーは作曲者としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞します。

75年には、4作目のアルバム『オペラ座の夜』(全英1位、全米4位)をリリース。ここから、先行シングル『ボヘミアン・ラプソディ』が全英9週連続1位の大ヒットを記録。当初「6分を超える長い曲などラジオで流してくれない」とレコード会社側は曲のカットを指示したが、マーキュリーとテイラーに意見を求められたラジオDJのケニー・エヴェレットはこの曲を気に入り、自身のラジオ番組で2日間で14回も流した。「ボヘミアン・ラプソディ」はチャリティーでない曲としてはイギリス史上最高の売り上げを記録し、マーキュリーは同曲のヒットにより2度目のアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する。その結果、『オペラ座の夜』は初の全英1位を獲得し、クイーンに批判的だったメディアからも非常に高い評価を得ました。

その後は、76年に『華麗なるレース』(全英1位、全米5位),77年再びセルフ・プロデュースで臨んだ6作目のアルバム『世界に捧ぐ』(全英4位、全米3位)を記録し、ここから『伝説のチャンピオン/ウィ・ウィル・ロック・ユー』が大ヒット(全英2位、全米4位)します。

78年には、7作目のアルバム『ジャズ』(全英2位、全米6位)リリース。再びプロデューサーにロイ・トーマス・ベイカーを迎え、バラエティに富んだサウンドと楽曲を展開しています。「バイシクル・レース」(全英11位、全米24位)のプロモーション用に制作された、全裸の女性が自転車レースをするというポスターとビデオは物議を醸しました。「バイシクル・レース」の影響もあって本作の発売直後にはマスコミの批判に晒されたが、アルバムは大ヒット。

1980年には、8作目のアルバム『ザ・ゲーム』全英1位、全米1位)をリリース。プレスリーを連想させるシングル「愛という名の欲望」(全英2位、全米1位)、ディーコン作の「「地獄へ道づれ」(全英7位、全米1位)とヒットを連発。

81年には、ベスト版『グレイテスト・ヒッツ」『全英1位、全米8位)をリリース。最もイギリスで売れたアルバムとされています。 

1983年、バンドの活動を休止し、各自ソロ活動に専念しました。1984年、11作目のアルバム『ザ,ワークス』(全英2位、全米23位)で復活。この頃になるとアメリカや日本での人気は落ち着く一方で、テイラー作の「RADIO GA GA』が19ヵ国で1位を獲得するなど大ヒットします。

85年には、ボブ・ゲルドフ(ブームタウンラッツ、ミッジ・ユーロ(ウルトラヴォックス)主催のチャリティーライブ『ライブ・エイド』に出演し、出演アーティスト中最多の6曲を披露し、そのパフォーマンスは観客を圧倒。あまりの質の高さにロンドン会場のヘッドライナーを務めたエルトン・ジョンが舞台裏で悔しさを顕にし地団駄を踏んだとされ、その後の反響は絶大で、世界各国でクイーンのアルバムがチャートを急上昇しました。

しかし、この頃からフレディはエイズに感染しており、そのことをメンバーに伝え、バンドを継続。91年に、実質的なラストアルバム『イニュエンドウ』(全英1位、全米30位)をリリース。同タイトルが、全米1位のを記録しました。

同年、マーキュリーの自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じて以下の声明文を発表しています。『私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました。しかし私の身の回りの人々のプライバシーを守るため、この事実を隠しておくことが適当だと考えておりました。しかし今、世界中の友人たちとファンの皆様に真実をお伝えする時が来ました。これからはこの恐ろしい病気に対して、私と私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦って下さい。』

そして翌92年、フレディ・マーキュリーはHIVによる免疫不全が原因となって引き起こされた肺炎により、45歳という若さで死去しました。亡くなった1991年は、奇しくもクイーン結成20年目でした。葬儀会場は世界中から駆けつけたファンの花束で埋め尽くされ、マーキュリーの死後、クイーンのアルバムが世界中でチャートインし、イギリスでは『ボヘミアン・ラプソディ』がイギリス史上初の同一曲2度目の1位という記録を打ち立てました。また、マーキュリーの遺言により初登場1位を獲得した作品の収益金はすべてエイズ基金に寄付されます。

1992年、バルセロナオリンピックの開会式でオペラ歌手のモンセラート・カバリェとマーキュリーがデュエットする予定だったが、マーキュリーの急死によりホセ・カレーラストが代役を務めまた。

95年には、正規メンバーでの最後のアルバムとなる『メイド・イン・ヘブン』(全英1位、全米58位)をリリース。

その後は、ディーコン不参加の中アダム・ランバート、ポール・ロジャースなどをボーカルに迎えながらライブを中心に活躍しています。



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日本にエレキブームをもたらした

引用

日本に、ロックやエレキギターブームを巻き起こしたバンドと言えば、やはり『ザ・ベンチャーズ』でしょう。

1959年、ドン・ウィルソンとボブ・ボーグルのギタリスト2人により結成。結成時は「ジ・インパクツ」を経て「ヴァーサトーンズ」と名乗っていたが、すでに使われていたため、ドンの母親であるジョシーからの提案によって「ザ・ベンチャーズ」と名乗るようになります。当初の演奏スタイルは、リードギターとリズムギターを曲によって交代するギターデュオで、ドラム、ベースなどはいませんでした。

結成前の1958年、ドンは自動車のセールスマン、ボブは昼間に建築業をしていました。ボブがドンに仕事を紹介し、一緒に仕事をするようになり、夜にはナイトクラブに出演してキャリアを積み、音楽関係の人脈を築き上げていきます。またこの頃から既にフェンダー社製のストラトキャスター、ジャズマスター、を主に使用していました。後にベーシストにノーキー・エドワーズ、ドラマーに、後に米空軍大将となりジョージ・バビットをメンバーとして迎え入れます。しかし、ジョージは当時未成年でナイトクラブでの演奏が許可されずデビュー前に脱退し、後任としてホーウィー・ジョンソンが加入。デビュー曲は「ブルー・ホライズン」レーベルからリリースした「ザ・リアル・マッコイ」です。

続く1960年の、「急がば廻れ(ウォーク・ドント・ラン)」でドラムは、スキップ・ムーアというクラブミュージシャンが担当し、ノーキーがベースを弾いています。地元シアトルのラジオ局がニュース番組のテーマ曲として起用したことから火が付き、米メジャーデビューを果たす。瞬く間にビルボード誌のシングル・チャート第2位を記録。急がば廻れ(ウォーク・ドント・ラン)」は、メジャーレーベルのドルトン・レコードから再発売されています。

その後、「十番街の殺人」、「朝日のあたる家」、「テルスター」、「ワイプアウト」、「パイプライン」、「ダイヤモンド・ペット」などが次々どヒット。このヒットは、日本に飛び火し、モズライト製のギターに人気に火がつき、エレキブームが巻き起こります。

1966年、加山雄三の「君といつまでも」「テルスター」のカバーを日本で発表してヒットしたことをきっかけに、そして1968年にノーキー・エドワーズが一度脱退し、後任ギタリストにジェリー・マギーの加入後は1960年代後半から1970年代前半にかけて日本を意識した曲を作るようになり、日本の作詞家が歌詞を付けて発表されたのがきっかけで、歌謡曲の作曲家としても注目されるようになります。

そして、1991年には、第42回紅白歌合戦にも出場。大きな話題となりました。2004年には、日米交流150周期年外務代品賞を受賞。2008年には、『ロックの殿堂』入りを果たします。2009年に結成50周年を迎え、同年6月14日にボブ・ボーグルが死去。以後はボブ・スポルディングが後任として正式メンバーとなります。

2010年春の叙勲にてメンバーのうち5人が旭日小綬章を受賞。

しかし、2020年に新型コロナウィルスの影響で、でアメリカからの入国が制限されている為、来日ツアーが2022年以降に延期となります。

2022年には、リーダーのドン・ウィルソンが死去。ドンの死去により、結成メンバーは全員故人となりましたが、後任のメンバーたちがその精神を今尚も、受け継いでいます。



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